「滝本洋子の胸の中から湧き上がってきた言葉」
2月の言葉
◆「謙虚であるということの意味」


大きなわたし

 「沢山の人々が、あまりにも本来ある姿からかけ離れて生きています。

必要以上に自分を苦しめています。

        

自然の、のびのびとした人間の生き方から遠のいて生きています。

あまりにも規制され過ぎた社会意識にとらわれ過ぎて、窒息寸前で、かろうじて生きています。



その息苦しさを大人たちよりも敏感に受け取っているのが子供たちです。

子供の世界は、自分の心を削って、自分を否定して、人に合わせ、生きています。



このような社会の中で、謙虚であろうとすれば、

益々自分を追い込んで行きます。



外見を取り繕うことはできます。

゛謙虚さ゛を装うことはできます。



謙虚さを演じてみても、それは本当の謙虚さではありません。



自分を本当に愛することなく、自己を否定している人がどうして゛謙虚゛にふるまうことが出来ますか?



ポーズだけの謙虚さは、心が伴わず、ただ疲れ果て大変無理があります。

無理があるから疲れはててしまいます。



疲れ果てるから益々自分が嫌になってきます。



本当の意味での゛謙虚である゛ということは、

自分を理解し、自分に十分な愛が満ちて、他に余裕がある時゛謙虚である゛  

ことができます。



゛謙虚さ゛とは、副産物のように自然と出てくるものです。

無理やり作り上げるものではありません。



『謙虚でありたい』と、望んでみても、

自己を否定し、自分の中に人に対する恨みや怒り不満などが満ちていて、

どうして謙虚に生きることができるでしょうか。



謙虚であることは、無理に努力して生み出すものではなく、

自然に心の中より湧き出てくるものです。



そこには一切の無理もありません。



いろいろな宗教の教義の中で、

「人は謙虚でなければいけない。」と、説いていますが、

確かにそれはそうです。



謙虚であることは大変美しいことです。

誰でもがそうあったらと願います。



でも謙虚であることは、結果なのです。



それ以前の謙虚さとは、自分にも人にも嘘があります。     

自分がしっかりと確立していない謙虚さは、偽物になります。  

それは誰でもない自分自身が一番分かっていることです。

   

ものごとは、とってもシンプルです。



自分に無理をしてもいつかはほころびが来ます。

外見は平静に見えても、心の中に葛藤が生まれます。

     

無理をしないで、自然体が一番です。」



 1998年4月8日、洋子の対話ノート「謙虚であることの意味」

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